糸山好みの超な日記

楽しんでいこう(*´ω`*)

子どもの長期休みの時期になると思い出す児童クラブ

小学校の帰りに子どもを預かる児童クラブで働いていました。

児童クラブに来る子どもは数年前まで3年生まででしたが、改正され6年生まで預ける事が出来るようになりました。

一クラス大体40人程度の子どもを、大人が4人程で見ます。小学生とはいえ一二年生の男の子は目が離せない程にやんちゃです。

将棋をすればケンカになり、室内で追いかけっこを始めた転んで怪我をしたり。一日に何度ケンカの仲裁に入ることかという感じです。

それでも四年生くらいになるとやんちゃだった男の子達も次第に丸くなってきました。子どもなりに空気を読んで譲るところは譲り、合わせる所は合わせて来ます。

五六年生くらいになると(六年生まで児童クラブに預ける事が出来るように改正されても、実際五六年生は数名しか通いません)もう支援員と同じくらいに何でもお手伝いをしてくれて、低学年の子どもたちの面倒を見てくれます。

低学年の子どもたちもまた、支援員に色々言われても言う事を聞かない子でも、上級生に注意されると不思議と言う事を聞きます。

何処か憧れの様なものがあるのだと思います。

夏休みなどは長い子は朝の8時から夜の19時までを児童クラブで過ごします。

そんな朝から晩まで一緒にいる子どもたちはまるで兄弟の様な感じです。

夏休みは冬休みの長期休みにはイベントもしっかり用意してあります。

料理教室やプール(雪の降る地域なので冬は雪遊び)、お寺に座禅を組みに行ったり、川遊びや、お出掛けとして美術館や遊園地に行ったり、手作りのおばけ屋敷(とても本格的で泣き出す子も続出です)、絵本の読み聞かせタイムにお昼寝タイム、本当に盛りだくさんのイベントでした。おやつも週に二回は手作りおやつを用意していました。

もう支援員は体力的にも無理なので(夏休みなどは朝8時から17時までの9時間労働で、お昼寝も子どもたちと一緒に食べるので本当に待った無しのフル稼動でした。家に帰ればもうフラフラでした。)辞めてしまいましたが、子どもたちはどの子もとても可愛いい所があり(どんなやんちゃな子もグッとくる可愛いらしい優しさを見せることが必ずありました。)たまに懐かしく思い出します。

電車で里帰りしてみました。

実家まで車で約一時間なので、4歳と1歳の娘がいて荷物も多い為いつも車で帰っています。しかし、4歳の娘が電車に乗ってみたいと言うので、電車で帰ってみることにしました。最寄りの駅まで2km弱、一時間に一本しか電車は来ません。4歳の娘が途中で疲れたとか抱っことかグズらないことを祈って発車40分前にベビーカーに1歳の娘を乗せて家を出発しました。娘も成長したもので、愚図ることもなくナカナカのペースで歩いてくれて無事10分前に駅に到着です。無人駅と聞いていたので、昔のイメージで乗車証明書とか取るのかと思っていたら、ちゃんと切符の自動販売機はもちろんイコカのチャージまで出来るようになっていました。娘に切符を買うと言うことを教えるべきかと思い切符を買ってみましたが、もしかしたらこれからの時代、イコカでピッとするやり方の方を体験させるべきだったのかもしれません。切符の自動販売機にお金を入れると、改札の機械に切符を必ず通すようにとの注意のアナウンスが流れました。なるほど、開いたり閉じたりするものがついていない改札の機械だけが置いてありました。そして、トンネル手前の2階くらいの高さのホームなのにエレベーターが付いていないことに気がつき焦りました。呑気に切符を買っている場合ではありません。ベビーカーで寝ている娘を起こし、抱っこして半分登った踊り場まで連れて行ってから立たせておき、泣いている娘に手を振ったり話し掛けながらベビーカーを持ってあがりました。張り切って一足先に駆け上がってしまったお姉ちゃんの方もホームに落ちないか心配でなりませんでした。やっとの思いでホームにたどり着くと通過電車が通り娘達は大興奮です。ガタンゴトンの音は想像より大きく、そして勢いがあって風を巻き上げて行きました。電車に乗ると嬉しそうに窓の外を眺め、トンネルから出たらいつものスーパーを見つけて喜んでいました。どれほども乗り物に興味がなく、電車とバスの区別もついていない娘ですが、何もかも初めての体験でとても嬉しかったようです。頑張った甲斐がありました。実家近くの大きな駅に着くと停車している特急列車を見て「今度はこれに乗りたい」と娘がいいました。分からないなりに格好いいとか悪いとか感じるものなんですね。今日のことは忘れてしまうのかもしれませんが、もう少し大きくなったら一緒に特急列車で遠出をしてみたいものです。

真夏から始めたお風呂で読書

私は、お風呂にゆっくり浸かっていることができないんです。
季節を問わず一年中です。
のぼせてしまって、すぐに気分が悪くなったり、倒れたりしてしまうんです。
そんな私が、夏真っ盛りのこの時期に、お風呂で読書しようなんて無謀な事を思いついてしまいました。
きっかけは、マツコの知らない世界に何度か登場した、文具ソムリエールの菅美里さんの本を読んだからです。
タイトルは「文具に恋して。」です。
お風呂向け文房具という章があり、菅さんはお風呂に入るときはモレスキンなどの撥水加工のノートとペン、付箋、飲み水、読みたい本をフェイスタオルに包んで持って入るそうです。
本は単行本だと水に濡れると膨らむので、文庫がいいそうです。
本の中の気になった内容をメモしたり、お風呂で思いついたアイディアをメモしたりするそうです。
そういえば、本は積読になっていて全然読めていないので、お風呂で読めたらいいなと思いました。
今までお風呂で読書をするという話は聞いたことがありますが、菅さんの本では、そのやり方まで詳しく書いてあったので、初めてやってみようかという気持ちになったのです。
また、お風呂に入っている時って、すごい良いアイディアを思いついたりすることってありませんか?
それをお風呂から出たらメモしよう!と思ったていたら、忘れてしまうんです。
そんな思いつきをメモできるのもいいなと思ったのです。
お湯はぬるま湯で、換気扇を回して、飲み水も持っていざお風呂へ!
何もすることが無いと、お風呂に浸かっていられないのですが、読書をしていると目的があるので浸かることができました。
倒れたらいけないので、水はこまめに飲みました。
あ~読書した!という達成感にあふれてお風呂からでると、まだ30分しか経っていません。
もっと長風呂をしたと思っていたのですが、びっくりです。
普段はどれだけ短い時間でお風呂に入っていたのでしょうか。
でも、クーラーで冷やされた体が芯まで温まったようで、体が軽くなりました。
すごい睡魔も襲ってきて、夜はゆっくり寝ることができました。
次の日は肌のツヤもいいような気がしました。
お風呂で読書をすると、いい事がたくさんあるようです。
菅さんは1時間入ることは普通で、3時間はさすがに体がふやけてくると書いてありました。
3時間なんて、すごい長風呂です。
だからあんなに綺麗なんだと思います。
美容の効果も期待して、これからも続けていこうと思います。

建築補強工事

阪神淡路大震災で建築強度計算が見直された後の出来事です。デパートの副店長と建築の責任者等が話し合った結果、柱の強度を上げる事になりました。日に日に作業は着実に進んでいたのですが、私が宿直の日に仮眠時間になったので寝ようと思いましたら、建築の監督が中央監視室に来まして、「1階の駐車場の指定されているコンセントに電気が来なくなったのですが、見てもらえませんか?」と言われたので見に行きましたら、業者の全員が電気が使えない為、作業を中断していました。私が建築の監督に「あの~他のコンセントを使えば宜しいのではないでしょうか?」と言いましたら、「契約上使う事が禁止されているので使えないのですよ」との事でした。なんだ?その訳の解らない契約は?と思いましたが、中央監視室に戻り電気図面を読みましたら、直ぐに特定のブレーカーを見つけたので、現場に行きましたら図面と現場が違い、警備の許可を得て店内から、仮設(一時的に仮に設置)電源を設けまして、その間に本来使うべくブレーカーを探していたのですが、1階のコンセントのブレーカーが1階のどこにもなかったのです。しかも建築の監督を含め全業者が電気の知識がなかったのです。よくよく考えましたら私が現場に来た時に1つのコンセントに30A(アンペア)を使っていたので、店内からは15Aと15Aに分けました。私が仮眠を取ったら、どんどんコンセントに負荷かけていき全部のコンセントブレーカーを落すのでは無いか?と言う不安もあり、中央監視室から副主任に電話をしましたら「え?第一種電気工事士が1階にいるはずだよ?」と言われ、建築の監督に「第一種電気工事士はどこにいるのですか?」と聞きましたら「え?そんな人いないですよ?」と言われ、何とかしないと大変な事になると思い闇雲にブレーカーを調べ続けていました。体力の低下・睡眠不足・過労と体調が悪くなれば悪くなるほど最悪のケースを考えてしまう。夜中の4時に中央監視室に戻りまして、もう諦めようと思ったところ、一冊の契約書が机に置いてありました。目を通しましたら『第一種電気工事士を一階で待機』と書いてあり、私はその契約書を持って建築の監督のところに向かいました(今思えば契約書を見なかった方が良かったと思います)。1階では作業が順調に進んでいまして建築の監督が作業を大勢の業者の近くで見ていました。私は建築の監督のところに行き契約書を広げ「ここに『第一種電気工事士を一階で待機』と書いていますよね?」と聞きましたら業者全員が気まずい空気になり「私は仮眠時間をとっくに過ぎているので中央監視室で休ませて頂きます」と言い中央監視室で仮眠を取ろうと思いましたら、30分毎に建築の監督にアドバイスを求められました。結局、仮眠時間に仮眠を取る事が出来なく1階に向かいましたら、建築の副責任者と監督が電気の知識が無い状態で電気を何とかしようと作業をしておりました。2人は私を確認し、私はその光景の理解に悩み、中央監視室に戻りましたら、建築の副責任者が「この契約書は私の入力ミスで、契約書の入力ミスには私に責任があり、電気の事に関しては貴方に責任があります」と言われ「では忙しいので失礼します」と中央監視室を出て行きました。体力の低下・睡眠不足・過労に追い打ちをかけるかのように「責任」がのしかかり、私は中央監視室で倒れ呼吸がどんどん苦しくなりました。このままだと死ぬと判断して、防災センターに私の名前と症状を伝えたのですが、同じ苗字の清掃の方がいたので、設備の私のところに警備員が到着した時には全身が麻痺しており過剰な呼吸を続けていました。警備員の「こりゃダメだ。救急車を呼ぼう」と言う発言だけは覚えております。救急隊が到着した時には目も見えていませんでした。「カカシだ!!」「カカシと勝手に判断するな!!」ととんでもない状況なのは耳で聞こえましたが、体が動かず目も見えていませんでした。左手の小指と薬指の間に何かを打たれ、右手の人差し指に何かを噛まされ「間違いない!!カカシ(過換気症候群)だ!!!」「聞こえるか!!血液中の酸素濃度が極端に高い!!酸素を体内に取り入れるな!!息を止めろ!!!」と言われ2分間位、息を止めましたら目が見えて体が動くようになりました。私は何度も「このビルを管理出来る者が、このビルには私しかいないのです!」と救急車に向かうのを拒否しましたが、「死んで今後を守れるか?」と言われ救急隊の指示に従いました。中央監視室から救急車に向かう途中に副主任に合い、後を頼みました。救急車の中で1人の救急隊に聞かれました。「さっきの人、頼れる人ですか?」私は答えました「はい。頼れる上司です」。病院で色々調べましたが、どこにも異常なし。一時的な過負荷だったようです。

夏の夜空に舞う真っ赤な花火

昨日(7月30日)にマツダスタジアムで行われたカープ対ヤクルト戦でカープ打線が夜空に花火を打ち上げました。

6回裏に四番鈴木誠也が21号となる3ランホームランを放つと、カープ打線は止まらぬ大猛攻を6回裏には8点の猛攻を見せました。

しかし、まだまだこの日のカープの攻撃は終わりませんでした。

8回裏にチーム最年長の新井貴浩が8号となる3ランホームランを放ちました。

広島の夜空を撃ち抜く大アーチでした。

この日は日曜日でマツダスタジアムには31190人の観客が訪れており、夏休み真っ只中!

カープ帽をかぶった子供たちも大勢訪れていた事でしょう。

そんなカープ坊やたち三万を超える大観衆に、見事選手たちは応えました。

ピッチャーでは岡田明丈が見事なピッチングで9勝をマークしました。

それにしても、このヤクルト戦のスタメンはまさに強力打線です。

1田中広輔
2菊池涼介
3丸佳浩
4鈴木誠也
5新井貴浩
6バティスタ
7安部友裕
8會澤翼

タナ・キク・マル、誠也と4番までは固定されてますが、5番以下は変動することがあり、エルドレッド松山竜平が入ることがありますが、まさにこのスタメンはホームラン攻勢を可能とします。

更に敗れはしましたが、7月27日のジャイアン戦では新井のところをエルドレッドを置いていました。

更に、タナ・キクも一発があります。

スポーツジャーナリストの二宮清純は「まだ彼らは伸びてるところで、全盛期も来てない、未完。
それなのにこんなに強い。
将来的には更に恐ろしくなる」と楽しみなことを語っていました、

今年のカープははっきり言って昨年より強いです。

更にこの先強くなることが予想されます!

夏といえばかつてカープの四番として活躍した江藤智が夏男と言われたくさんホームランを放っていました。

是非ともこの夏!

花火をたくさん打ち上げてほしいと思います。

また新井貴浩の活躍も楽しみにしています!
40歳チーム最年長ですが、昨日のホームランを見てもまだまだパワーは健在!
底知れぬ力を持っています。

常勝球団です目指し更なる補強とその代償

落合博満選手の加入により、チームの意識改革に成功したジャイアンツは1994年のリーグ優勝、そして長年勝てなかった西武ライオンズにも勝利し念願の日本一を達成します。
そしてジャイアンツは更なる上を目指すべく、この年のオフには大きな補強を実施する事となります。
まずはヤクルトスワローズを退団したばかりの主砲ハウエル選手を獲得、そして当時バリバリのメジャーリーガーだったマック選手、そしてFAではヤクルトスワローズの広沢克巳選手、そして広島東洋カープから当時ジャイアンツキラーとして名を馳せていた川口和久投手を左腕の先発要因として獲得、連覇へ向けて磐石な体制をとったかに見えました。
しかし1995年のシーズンが開幕すると、期待された重量打線が思うように機能せず、またリリーフ陣が弱体化していた事もあり、開幕早々に失速、結果は優勝したヤクルトスワローズ広島東洋カープに次ぐ3位でシーズンを終了する事となりました。
この年加入した選手についてですが、まずはFAで加入した広沢選手は開幕から不振を極め、後半やや持ち直したものの、それでも全盛期と比較すると打撃が湿りがちで、川口投手については左腕の先発として期待されたもののシーズン通して僅か4勝と波に乗れず、ハウエル選手に至っては故障でシーズン途中に帰国、そして主軸として期待されたマック選手は後半1番打者として気を吐いたもののやはり物足りない成績に終わってしまいました。
ちなみにその前年に中日から移籍してきた落合博満選手はこの年一年通して4番を任され3割を記録、入団3年目の松井秀喜選手も好不調の波があったものの主軸としてはまずまずの成績を残しました。
移籍してきた選手がこぞって活躍出来なかった事は大きな要因でしたが、この年はエースだった桑田投手が肘の故障で長期に渡る戦線離脱も優勝を逃した要因の一つとして数えられてます。
またこの年優勝したヤクルトスワローズですが、他球団を戦力外になって入団した選手を積極的に起用しそれぞれ結果を残した事から大枚をはたいて優勝出来なかったジャイアンツにとっては皮肉な一年ともなってしまいました。